【第6回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』ランボルギーニからダットサンまで、貴重な名車をご紹介!
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2018年3月30日(金)~4月2日(月)にかけて、京都・元離宮二条城にて『コンコルソ・デレガンツァ京都2018』が開催された。最終回はランボルギーニの車両を中心にこれまでに紹介できなかった展示車を紹介して行く。

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【第1回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』アルファ ロメオの空飛ぶ円盤を見に京都へ(千葉からスクーターで)行く

【第2回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』数々の美しい名車を生み出したカロッツェリア・トゥーリングを知っていますか?

【第3回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』新旧の"空飛ぶ円盤"が京都に集結

【第4回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』 アルファ ロメオからフィアットまで、魅力的なイタリアの名車をご紹介!

【第5回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』マセラティ兄弟のO.S.C.Aからアストンマーティン黄金期の名車まで、展示車両をご紹介

68年型 ランボルギーニ・イスレロ

ランボルギーニが400GTの後継として1968年に発表したV12エンジンをフロントに搭載した豪華なGT。

軍から払い下げられたトラックの民間への転売から始まり、トラクターの製造販売、ボイラーとエアコンのセールスと、さまざまなビジネスに手を出して巨万の財を成した実業家のフェルッチオ・ランボルギーニは、スポーツカーの収集を趣味としていた。

だが、60年代当時のスポーツカーは居住性や信頼性に劣り、そのことをフェルッチオは大いに不満を感じていた。とくに当時のフェラーリ製ロードカーにはクラッチの構造に難があり、フェルッチオが所有するフェラーリは頻繁にトラブルを引き起こして、ディーラーに入庫する度に高額な修理代を請求された。

業を煮やしたフェルッチオは、ある日自身のトラクター工場で愛車の修理を試みる。いざ故障したクラッチを分解してみると、使用されていたのは自社のトラクターにも使われてるボーグ&ベック製のクラッチ板だった。その部品にフェラーリはトラクター用の10倍の値段をつけていたのだ。なお、まったくの余談ながら筆者もフェルッチオと同じ経験をしたことがある。以前所有していた456GTの駆動系修理のために、部品番号を調べていたところ、フォードFシリーズ・ピックアップ用のクラッチが使われていることに大いに驚かされた。もちろん、部品代はフェラーリ価格となっていた(今も昔もフェラーリの客あしらいに変わりはないということか...)。

巷間伝えられている伝説ではフェルッチオはこれに怒り狂い、エンツォ・フェラーリに抗議の手紙を送り、それが無視されたためフェラーリに乗り込んでエンツォに苦情を申し入れたが、成金の戯言と鼻で笑われて軽くあしらわれたことから、ある種の意趣返しとしてスポーツカービジネスに乗り出した、とされる。

だが、フェルッチオと言えば、終戦後の混乱の中から目ざとくビジネスチャンスを見つけ出し、裸一貫から大富豪へと成り上がった生粋のビジネスマンである。果たして他人の製品の改良点をわざわざ手紙にしたためて送り、あまつさえ相手の会社に乗り込んで苦情を申し立てるような一銭の儲けにならないようなことをしたのであろうか?

おそらく、フェルッチオはフェラーリの内部構造を目にしたときに、怒りよりも「オレならもっと良い製品を作って、高級スポーツカー市場で儲けてみせる」と考えたはずだ。事実、優秀なメカニックでもあった彼は、愛車のクラッチを修理するとともに、ウェバー製のキャブをダウンドラフトからサイドドラフトへ、シリンダーヘッドをSOHCからDOHCに改造して大幅な性能アップを実現した。この結果に自信を持ったフェルッチオは勇躍自動車ビジネスへの進出を決意したと言われている。


60年代のイタリアは「奇跡的復興」と呼ばれる経済成長期にあり、新興成金が各地に誕生してこの種の高級スポーツカーの需要が高まりを見せていた。また、自動車の一大消費地であった米国も戦後の繁栄期を迎えており、輸出ニーズも充分に見込めたのだ。こうした経済状況も彼に成功への自信を与えることになったのだろう。すなわち、フェルッチオの決意はエンスージアスティック精神の発露と言うよりは、ビジネスマンとしての才覚からということになる。

こうして62年に会社として設立されたランボルギーニは、翌63年のトリノショーで1号車の350GTVを発表し、64年春にはその生産型である350GTの生産を開始した。この車両はフロントに3.5L V12DOHCを搭載した2+1シーターの豪華なGTで、スタイリングはカロッツェリア・トゥーリングが担当した。ボディは鋼管フレームにアルミ合金ボディを架装したスーパーレジェーラ方式となる。

350GTは66年に400GTへと進化し、展示車両のイスレロはその後継車両として68年に誕生した。このクルマは400GTの正常進化版ともいえるクルマで、エンジンを含めてメカニズムは前モデルのものを流用している。だが、スタイリングは66年にトゥーリングが解散したことから、ビアンキ・アンデルローニ(チッチ)の片腕として同社で働いていたマリオ・マラッツィに依頼された。

イスレロは直線を多用したクラシカルで美しいスタイリングのクルマであったが、同時期に同じランボルギーニから革新的なエスパーダが登場したこともあり、人気を掴むまでには至らず、製造期間はわずか1年で、225台がラインオフしたところで生産を終了している。

なお、車名のイスレロとは、「マノレテ(Manolete)」として有名な闘牛士のマニュエル・ロドリゲスを殺した牛の名に因む。


71年型 ランボルギーニ・ミウラ

1966年のジュネーブショーで発表されたランボルギーニ・ミウラは、欧州車で初めて大排気量エンジンをミッドに搭載した2座スポーツカー‥‥いわゆるひとつのスーパーカーの元祖である。

開発のきっかけはミウラの2年前に登場し、ニュルブルクリンクやル・マンなどの欧州で開催された耐久レースで暴れ回ったフォード GT40だろう。

それ以前の欧州製スポーツカーにもミッドシップレイアウトを採用した車両は存在したが、排気量は1.1L~2.5Lと比較的小さいものに限られていた。当時はフェラーリやマセラティといったFRレイアウトを採る高性能車でも最大排気量は3~3.5Lという時代である。そんなところに打倒フェラーリを目標に新大陸から欧州へと差し向けられた刺客が、4.7L V8をミッドに搭載したGT40であった。当時の欧州の人々のGT40に対する衝撃は相当なものだっただろう。そして、この大排気量エンジン+ミッドシップというコンセプトを市販車にいち早く取り入れたのが、このミウラというクルマであった。

ミウラを開発したのはフェラーリやマセラティでレーシングカー開発に携わった若手エンジニアのジャンパオロ・ダラーラだ。彼は早い段階でミッドシップの可能性に注目していたが、フェラーリやランボルギーニでは実現することができなかった。63年にフェルッチオの誘いを受けてランボルギー二に移籍した彼は、そこで350GTをはじめとした創成期のランボルギーニの開発を担当する。

そんなダラーラにフォード GT40のレースでの活躍は大きな衝撃を与えるとともに、自身の考えが正しいことを確信したことだろう。だが、ランボルギーニは社是でモータースポーツと距離を置いている。大排気量のミッドシップカーを作るなら必然的にロードカーとならざるを得なかった。おまけに社主のフェルッチオはFRレイアウトの豪華なGTに固執しており、350GTの改良型である400GTの開発を最優先で命じていた。ダラーラはフェルッチオと粘り強く交渉し、最終的に通常業務終了後に私的プロジェクトとして開発許可を得ることに成功する(フェルッチオは「そんなクルマは商売にはならない」と考えていたようで、半ばエンジニア達のクラブ活動として許可したようだ)。

シャシー設計およびミウラの開発プロジェクトリーダーはダラーラ本人が務め、エンジンは既存の4L V12DOHCをパオロ・スタンツァーニが横置きミッドに搭載できるように改良し、チーフデザイナーはベルトーネに在籍するマルチェロ・ガンディーニが担当した。


ミウラはまずは65年秋のトリノショーでシャシーとエンジンのみの試作モデルが展示され、翌66年春のジュネーブショーでボディを架装した完成車両が展示された。当初はコンセプトモデルとして市販予定がなく、仮に市販するにしても少量生産の限定モデルとなるはずだったミウラだが、公開とともにオーダーが殺到したことからカタログモデルとして市販化が決定する。もともと市販予定がなかったクルマだけに、初期モデルの完成度はけっして高いとは言えなかったが、生産が進むに連れて完成度が高められて行き、71年のジュネーブショーにて最高出力385psを発揮するミウラSVへと結実した。

ミウラの登場はその後の欧州のスーパースポーツに多大な影響を与え、以来、大排気量マルチシリンダーエンジン+ミッドシップというミウラのフォロワーが多数出現する契機となった。故にミウラこそが「スーパーカーの元祖」と呼ばれる由縁となっている。

なお、車名のミウラとは、スペインで闘牛の飼育家として知られるドン・アントニオ・ミウラにちなんで命名された。


74年型 ランボルギーニ・カウンタック LP400

スーパーカー世代には今なお憧憬をもって迎えられるランボルギーニ・カウンタック。今回のイベントでも名だたる名車をよそに人だかりを作っていた(本当はカウンタック以上に歴史的に稀少なクルマが会場に並んでいたのだが...)。

イタリア・ピエモンテ州の"クンタッチ(凄い)"という方言を由来とする車名が与えられたこのクルマは、71年のジュネーブショーでプロトタイプのLP500が発表された。

チーフデザイナーは前モデルのミウラに引き続きベルトーネに在籍するマルチェロ・ガンディーニが担当。開発はジャンパオロ・ダラーラの辞職に伴いチーフエンジニアに昇格したパオロ・スタンツァーニが務めた。

シャシーはランボルギーニ伝統の鋼管フレームを採用し、メカニズムはミウラと同じく大排気量V12をミッドに搭載する。だが、マウント方式は重量バランスの改善と複雑な機構の駆動系改善のために横置きから縦置きへと変更されている。


その空気を切り裂いて進むようなシャープな未来的なスタイリングは、発表とともに世界中のモーターファンの話題をさらった。だが、エンジンの冷却効率の問題から改良に時間を取られ、最初の市販モデルとなるLP400がデビューしたのは3年後の74年のことだった。カウンタックはその後も適時改良を加えられながら完成度を増して行き、最終モデルのアニバーサリーの生産が終了したのは、LP500の誕生から19年後の90年のことだった。

カウンタックはランボルギーニの方向性を決定づけた記念碑的なモデルであり、長く生産が続けられたばかりか、そのコンセプトとスピリッツは現在のランボルギーニにまで受け継がれている。



72年型 アルファロメオ・モントリオール

1967年のカナダ・モントリオール万博にプロトタイプが出展され、マルチェロ・ガンディーニが手掛けた見事なスタイリングが絶賛されたアルファ ロメオの豪華な2+2クーペ。

市販モデルが発表されたのは70年のジュネーブショーのことで、ジュリアのプラットフォームを流用したところはプロトタイプと変わりはないが、心臓部は1.6L直4DOHCからレーシングカー・ティーポ33由来の2.5L V8DOHCに換装され、アルファ ロメオのフラッグシップに相応しい動力性能を確保した。


現オーナーは2010年に展示車両を入手し、入念にレストアを施したという。アルファロメオというとイタリアのナショナルカラーであるロッソ(レッド)のイメージが強いが、上品かつエレガントなビアンコ(白)のボディカラーもよく似合う。


52年型 ダットサン DC3

明治の頃から東京でDAT号を生産していた快進社と、大阪でゴーハム号やリラー号を生産していた実用自動車を実業家・鮎川義介が統合したのが今日に続く日産自動車であり、同社は現存する国内最古の自動車メーカーである。

第2次世界大戦の敗戦により連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から自動車製造を禁止されるが、47年から徐々に規制は解除されて行った。生産再開当初、日産が生産していた乗用車は、オースチンを模倣した0.72L直4サイドバルブエンジンを搭載し、木骨を木ねじで組み立てたフレームに、職人による板金作業で作られたボディを架装した戦前型の小型乗用車であった。その後、外装だけはアメ車風のモダンなものとなったが、中身は旧態依然としたままのクルマの生産が52年にBMCと技術提携を結ぶまで続くことになる。


そんな時代に日産が世に送り出したのが、日本最初のスポーツカーとなるダットサン DC3だ。当時、北米で人気を集めていたMG Tシリーズを目標に開発されたこのクルマは、0.86L直4サイドバルブエンジンを搭載した洒落たコンバーチブルとして製作された。しかし、ハンドリングや動力性能ではTシリーズはもちろん、旧式のJシリーズにも遠く及ばなかった。

製造期間はわずか2年間で、総生産台数はわずか50台のみ。商業的には成功したモデルとは言えなかったが、このクルマが現在のZに続く日産スポーツカーの礎となった。


60年型 ダットサン・フェアレデー1200

1960年に登場したこのクルマは、フェアレディ(当時の表記はフェアレデー)の名を冠した初のスポーツカーである。

前身となったのは57年に発表されたダットサン・スポーツ1000(S211型)で、ダットサン・トラック/セダン用の1L直4OHVに同時代のシボレー・コルベットやロータス・エリートが採用した先進的なFRP(繊維強化プラスチック)のボディが架装された。このクルマの生産台数はわずか20台で、すべてが右ハンドル仕様だったが、そのほとんどが北米に送られてテスト販売された。


フェアレデー1200はS211型の改良型で、スポーツカー需要が見込める北米市場への輸出を前提としたモデルである。エンジンは排気量をブルーバードにも使用されたE型1.2L直4OHVへと変更され、ボディは生産性を考慮してFRPから一般的なスチール製に改められている。また、輸出仕様ということで全車左ハンドル仕様となった(国内で販売された車両も左ハンドルのままだった)。

形式番号はSPL211と改められ、Sがスポーツ、Pがパワー、Lがレフトハンドドライブ(左ハンドル)で、数字は210型ダットサン1000の派生車種であることを表した。なお、車名のフェアレディとは、当時日産社長だった川俣克二氏が渡米した際に観覧したブロードウェイ・ミュージカルに由来している。

性能面や自動車としての精錬度は仮想敵とした英国製スポーツカーに遠く及ばなかったが、北米での価格が比較的安価であったことから62年までに217台が生産された。


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