【第5回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』マセラティ兄弟のO.S.C.Aからアストンマーティン黄金期の名車まで、展示車両をご紹介 
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2018年3月30日(金)~4月2日(月)にかけて、京都・元離宮二条城にて『コンコルソ・デレガンツァ京都2018』が開催された。前回に引き続き、今回もカロッツェリア・トゥーリングの車両を中心にこれまでに紹介できなかった展示車を紹介して行く。


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【第1回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』アルファ ロメオの空飛ぶ円盤を見に京都へ(千葉からスクーターで)行く

【第2回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』数々の美しい名車を生み出したカロッツェリア・トゥーリングを知っていますか?

【第3回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』新旧の"空飛ぶ円盤"が京都に集結

【第4回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』 アルファ ロメオからフィアットまで、魅力的なイタリアの名車をご紹介!

57年型 O.S.C.A(オスカ)187S

O.S.C.Aはイタリア・ボローニャにあった小排気量の競技車両を得意とした小さな自動車メーカーである。

現在に続くマセラティの創立者であるマセラティ兄弟は、1937年に同社が経営難に陥ったことからモデナの実業家のアドルフォ・オルシに経営を譲渡。契約により10年間マセラティに在籍したのち、大戦後の47年にエットーレ、エルネスト、ビンドの3人(同社の中核を担った四男のアルフィエーリは32年に他界)がO.S.C.A(Officine Specializzate Costruzione Automobili:マセラティ兄弟特殊自動車製作所の略)を設立した。彼らの目標は「1.1Lレーシングクラスで優勝できるマシンの開発」であった。

マセラティ兄弟がこのような判断を下した理由は、戦争の爪痕が残る当時のイタリアでは、多額の活動資金を必要としたグランプリマシンはニーズがほとんどなく、アマチュアレーサーからの需要が見込める小排気量レーシングカーに市場性を見出したからである。

ボローニャのサン・ラッザロ地区に工場を設けて従業員10人で創業したO.S.C.Aは順調に業績を伸ばして行き、従業員は30人に増え、年間140台のレーシングカーとほぼ同数のロードカーを生産するまでになった。

そんな同社が最初に生産した48年型 MT4 バルケッタは、ルイージ・ヴィッロレージのドライブにより48年のナポリ・グランプリで優勝し、アーダ・パーチェの指揮により、タルガ・フローリオをはじめとした数多くのレースでクラス優勝を勝ち取った。


展示車両の187Sは、同社で最も排気量の小さい0.74L直4DOHCをフロントに搭載したレーシングカーで最高出力は76hpを発揮。シャシーは楕円型のサイドメンバーを持つラダーフレームを採用している。足回りはフロントがダブルウィッシュボーン&コイルスプリング、リアは同社では初となるコイルの代わりにリーフスプリングを用いたライブアクスルとなる。

187Sの生産台数はわずか19台に過ぎないが、57年のセブリング12時間耐久レースでクラス優勝を飾るなど、57~62年のレースで数多くの勝利を同社にもたらした。

O.S.C.Aの解散後もこの車両は残され、85年に大掛かりなレストアを施したのちも、タイムトライアル方式のクラシックカーレースとして復刻したミッレミリアで5位、タルタルーガ・ドーロとグラン・プレミオ・ヌヴォラーリで優勝を飾っている。なお、同車の双子車と言われている750Sは、58年のル・マン24時間耐久レースの0.75L以下クラスで優勝している。


49年型 フェラーリ 166インテル

フェラーリは1929年からの歴史を持つ自動車史上でも有数のレーシング・コンストラクターである。レーシングカーの開発には第2次世界大戦以前から携わっていたが、初めて自らの名前を冠したマシンで優勝を飾った47年を創業の年としている。

展示車のフェラーリ 166インテルは、同社初の量産ロードゴーイングカーだ。ベースとなったのはフェラーリが3番目に製造したレーシングマシンの166Sである。この車両はフェラーリ 159Sの排気量を拡大したモデルで、アルファ ロメオから移籍したジョアッキーノ・コロンボが設計した2L 60度V12を搭載し、ウェバー製3連キャブと5段ギアボックスを備え、最高出力は140hp、最高速度は185km/hに達した。なお、車名の3桁の数字は1シリンダー当たりの排気量を表している。


市販化に当たって166インテルは、エンジンをデチューンして最高出力を115hpに抑えている。同車の総生産台数は37~38台とされ、ボディはカロッツェリア・トゥーリングが製作したほか、ヴィニャーレ、スタビリメンティ・ファリーナ、カロッツェリア・ギアなどでも手掛けた。

なお、166のバリエーションには48年のミッレミリアで優勝した166MMがあり、プライベーターの手で49年のミッレミリアで総合優勝、同年のル・マン24時間耐久レースでも優勝している。同車は48年末から33~34台が製造され、うち25台はトゥーリングが製作したバルケッタとなる。こちらは市販レーサーという位置づけのクルマだが、資料によっては166MMをフェラーリ初の市販モデルとしているものもある。


59年型 アストンマーティン DB4

アストンマーティンがDB3の後継として1958年に発表したスポーツカーがDB4である。今回のイベントには59年型・シリーズ1と61年型・シリーズ3が展示されていた。

1913年にロバート・バムフォードとライオネル・マーティンがロンドンに設立したバムフォード&マーティン社は、15年にイングランドのアストン・クリストンで行われたヒルクライムでマーティンが持ち込んだ1号車が優勝し、それを記念して「アストンマーティン」のブランドが生まれた。

20年には「スポーツ」がデビューし、ふたりの後援者だったルイス・ズボロフスキー伯爵らが数々のレースに参戦。23年には同車の市販が開始された。しかし、24年に伯爵が競技中の事故で急死すると、有力なスポンサーを失った同社はあっけなく倒産する。その後、再起を図るも経営難を改善することはできず翌25年に再び倒産し、マーティンは会社を去ることになった。

その後、イタリア生まれのアウグストゥス・チェザーレ・ベルテッリによってアストンマーティン社は再建され、相次いで発表されたロードカーの成功や、レースでの活躍によって名声を高めるが、非効率な経営やモータースポーツへの多大な投資により再び経営危機に陥ることになる。これに対して新たに経営に参画したアーサー・サザーランドは、モータースポーツ部門を凍結し、市販車製造に専念して復活を企図するも、直後に第2次世界大戦が勃発して民間向け車両の製造が禁止されたことから、戦時中は軍用機の部品製造で会社の存続を図ることになった。

大戦終結後、低迷を続けていた同社に救いの手を差し伸べたのは、トラクター事業で財を成した実業家のデビット・ブラウンであった。彼は倒産した高級車ブランドのラゴンダを吸収合併させ、当時ラゴンダに在籍していたベントレーの創業者で、技術者のウォルター・オーウェン・ベントレーにアストンマーティンのエンジン開発を任せることになる。こうして誕生したのが同社初の戦後モデルであり、デビット・ブラウンの頭文字がつけられたDB1である。

デビット・ブラウンの手腕によって市販車の販売は上向き、ル・マンやスパ・フランコルシャンなどの耐久レースでも表彰台の常連となった。今から振り返れば、50~60年代がアストンマーティンの黄金期だったといえるかもしれない。


そんな同社の絶頂期にDBシリーズ4番目のDB4は誕生した。ボディはカロッツェリア・トゥーリングが特許を持つスーパーレジェーラ製法で製作され、心臓部はポーランド生まれの技術者タデック・マレックが生み出した全軽合金製の3.7L直6DOHCが搭載される。これは57年のル・マンで活躍したDBR2に搭載したエンジンを市販車用にデチューンしたものだ。最高出力はSUツインキャブを備えた標準モデルが240hp、SU3連キャブで武装した高性能モデルのヴァンテージが266hpを発揮した。

DB4は58~63年の5年間に1110台が生産され、商業的にも成功し、アストンマーティンを大いに潤わせた。

また、レースへの参戦を前提にエンジンの圧縮比引き上げとツインプラグ化し、ホイールベースを13mm短縮、リアシートを廃止するなど85kgの軽量化を図ったDB4GTも生産されている。同車は75台がトゥーリング製のボディを載せ、19台がカロッツェリア・ザガート製のボディを架装している。


62年型 ラゴンダ・ラピード

1906年にウィルバー・ガンによって設立されたラゴンダは、戦前はベントレーやアルファ ロメオ、ブガッティなどと並ぶ高級車メーカーとして広く知られた。しかし、第2次大戦後に自動車産業がマスプロ化すると、時代の波に乗り切れずに経営破綻に陥った。そんな同社を買収したのがトラクター製造会社のオーナーであり、アストンマーティンの経営権を握ったデビット・ブラウンであった。

ブラウン傘下となった新生ラゴンダが59年にリリースしたのが、アストンマーティン用に開発された3.7L直6DOHC(デビュー1年後に新設計のアルミ製4L直6DOHCに換装されている)を搭載した4ドアセダンのラピードである。


車体はアストンマーティンと同様にカロッツェリア・トゥーリングが特許を持つスーパーレジェーラ製法で製作されており、スタイリングはゆったりとしたアンダーボディに小ぶりなキャビンを載せた英国車らしい伸びやかなプロポーションに、当時の流行であった吊り目の4灯式ヘッドランプ、テールフィン、長円形のラジエターグリルなどのディティールが散りばめられている。インテリアは英国製高級車の伝統に則って本革とウォールナットがふんだんに使われた贅沢なものが採用された。

受注生産による手作りの高級車ということもあり、販売価格は高く、そのため61~64年までの間に製造されたラピードはわずか55台に留まる。


明日掲載予定の最終回へ続く

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