【第4回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』 アルファ ロメオからフィアットまで、魅力的なイタリアの名車をご紹介!
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2018年3月30日(金)~4月2日(月)にかけて、京都・元離宮二条城にて『コンコルソ・デレガンツァ京都2018』が開催された。今回はカロッツェリア・トゥーリングの車両を中心に、これまでに紹介できなかった展示車を紹介して行く。

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【第1回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』アルファ ロメオの空飛ぶ円盤を見に京都へ(千葉からスクーターで)行く

【第2回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』数々の美しい名車を生み出したカロッツェリア・トゥーリングを知っていますか?

【第3回】『コンコルソ・デレガンツァ 京都 2018』新旧の"空飛ぶ円盤"が京都に集結

51年型 アルファロ メオ 6C 2500 SS ヴィラ・デステ

第2次世界大戦で国土が戦場になったイタリアは戦災により甚大な被害を被った。アルファ ロメオもまた例外ではなく、終戦までに連合軍による3度の空爆によりポルテッロの本社工場は壊滅し、生産活動を停止した。だが、1945年に終戦を迎えると、船舶・航空機用エンジン、独自設計の電気式クッキングコンロの製造の傍らで細々とだが自動車の生産を再開する(43年9月のクーデターによりムッソリーニを権力の座から引きずり降ろして成立したバドリオ政権は、米英軍との戦闘を終結させると同時に枢軸国に宣戦布告したことが連合国に評価されたのか、イタリアはドイツや日本よりも早く航空機や自動車の生産が認められている)。


展示車両の51年型 アルファ ロメオ 6C 2500 SS ヴィラ・デステは、同社の復興期も終盤に差し掛かった時期に完成した贅沢な高級クーペである。

メカニズムは戦前の6Cシリーズのものを引き継ぎつつ、新たにアルファ ロメオ社の主任設計者となったオラツィオ・サッタ・プリーガが改良を施している。ただし、戦後のガソリン事情を考慮して圧縮比を落とし、最高出力は5psダウンの90psとなった。


スタイリングはカロッツェリア・トゥーリングが担当。スーパーレジェーラ方式で作られた最後のアルファ ロメオとなった。

創業者のフェリーチェ・ビアンキ・アルデローニは49年に亡くなっており、このクルマのチーフデザイナーとなったのは、息子のカルロ(チッチ)であるが、父の偉大な才能と技術が子に受け継がれたことは、この素晴らしいスタイリングが雄弁に物語っている。

車名のSS ヴィラ・デステとは、SSがスペル・スポルト(スーパー・スポーツ)の略であり、ヴィラ・デステとは49年に開催された『ヴィラ・デステ・コンクール・デレガンス』に出展されたことが由来となっている。


55年型 アルファ ロメオ 1900C スーパー・スプリント・クーペ

終戦直後、再建間もないアルファ ロメオは戦前設計の超高級車・6Cシリーズを細々と手作りしていた。だが、40年代末になるとイタリアは高度経済成長期へと突入し、時代はより排気量が小さく、より安価で、近代的な設計の量産モデルを求めるようになる。

そこでアルファ ロメオはチーフエンジニアにオラッチォ・サッタ・ブーリガ、メカニカル関係にジュゼッペ・ブッソ、ボディワークにイーヴォ・コルニッチを当て、量産可能な新世代の乗用車を開発する。こうして1950年に誕生したのが、同社初の戦後型モデルであり、かつ本格的な大量生産車となった中型ファミリーカーの1900シリーズである。

このクルマは経営の一大方向転換を実現したアルファ ロメオにとっての記念碑的モデルとなった。だが、モータースポーツで数々の栄冠を手にしてきたアルファ ロメオが単なるファミリーカーを作るはずもなく、搭載されるエンジンはアルミヘッドを備えた直列4気筒DOHCで、6C 2500に採用されていた4輪独立懸架は採用されなかったものの、前輪はコイルで吊ったダブルウィッシュボーン、後輪は横方向の位置決めをするAアームが特徴のリジッドアクスルを採用。安定性に優れた足回りで当時としては先進的な設計であった。また、ボディは従来までのフレーム構造を刷新し、アルファ ロメオ初となるフルモノコックを採用していた。

51年にはホイールベースを130mm短い2500mmに短縮した1900Cが追加され、主に各コーチビルダーが特注車体の製作に使用した。スポーティな走りを実現するためにエンジン出力も100psに強化されている。

展示車両のアルファ ロメオ 1900C スーパー・スプリント・クーペは、カロッツェリア・トゥーリングが手掛けた1900 スプリントを発展させたスポーツモデルである。

ベースとなったのは、54年に登場した1900シリーズのフェイズ2で、別名「スーパー」とも呼ばれたモデルである。同車はツインキャブレターの採用により最高出力が115psに向上。新開発の5速MTの恩恵もあり、最高速度はベースモデルよりも10km/h速い190km/hに達した。


57年型 アルファ ロメオ 1900C スーパー・スプリント・クーペ​​​​​​​

同じく1900Cをベースにしたトゥーリング製のクーペ。こちらはその後期型。ボンネットが低くなり、フロントマスクも54年にトリノショーで発表されたジュリエッタ・スプリントと共通の意匠が与えられている。


展示車両は工場を出てから1度もクラッシュしたことがなく、レストアされたこともない未再生原型車だ。当時のオリジナルのまま、今も美しい姿を保つ稀少な個体である。


60年型 アルファ ロメオ 2600 スパイダー・トゥーリング

1957年、アルファ ロメオのフラッグシップとなる2000シリーズがトリノショーで発表された。54年には1900シリーズの後継としてジュリエッタが発表されていたが、イタリア国内の高級車市場をトリノのランチアから奪うための切り札として期待されるモデルであった。

2000シリーズは57年にセダン型のベルリーナとカロッツェリア・トゥーリングが手掛けた2座オープンモデルのスパイダーが発表され、その3年後に弱冠23歳のジョルジェット・ジウジアーロがスタイリングを担当したクーペボディのスプリントがデビューしている。

ベルリーナのボディは1900に比べてホイールベースが90mm延長され、全長は270mm、全幅は100mm、全高は15mm拡大されたことで居住性は大幅に向上している。メカニズムは前モデルのキャリーオーバーとされ、排気量が1.9Lから2Lに拡大し、最高出力が向上した以外に大きな変化は見られない。

しかしながら、ユーザーにはアルファロメオは高級車よりもスポーツカーのイメージが強かったことから、主力モデルのベルリーナが販売面で苦戦。ランチアの牙城を揺るがすには至らなかった。


そこで1962年にアルファ ロメオは同車のテコ入れを図り、新開発の2.6L直6DOHCエンジンを搭載した2600シリーズへと発展させた。ボディバリエーションに変更はなかったが、スパイダーは使い勝手を向上させるべく2+2化されている。

同世代のジュリエッタ・スパイダーが女性的な丸みを帯びたスタイリングなのに対し、2600 スパイダーは戦前のアルファ ロメオの系譜を色濃く受け継ぐ、エレガントでありながら落ちついた雰囲気でまとめられている。


62年型 マセラティ 3500GT​​​​​​​

1957年のジュネーブショーでデビューしたマセラティ 3500GTは、レーシングカー譲りの高性能とロードカーに求められる快適性を高い次元で融合した世界初の量産型GTである。

それまでのマセラティと言えば、サーキットではフェラーリと互角の戦いを繰り広げており、レーシングコンストラクターとしての知名度は高かったが、ロードカーは依頼主のオーダーを受けてから手作業で製作するワンオフメーカーとしての性格が強かった。これはライバルのフェラーリも同様で、この当時のスーパースポーツや高級GTは、走行性能は高くても、乗り心地が悪く、おまけに信頼性に劣るシロモノであった。


マセラティの社長だったオメル・オルシは、こうしたスーパースポーツのあり方に疑問を感じていた。「速く、そして安心して乗れる量産型GTを販売すれば、ユーザーである富裕層の支持を得られて市場を独占できるのではないか?」。そう考えた彼はチーフエンジニアのジュリオ・アルフィオーリに、生産コストを抑えながらも当時のレーシングカーに匹敵する高性能を持ち、かつ贅沢で居住性にも優れたクルマの開発を命じた。

この難題に対してアルフィオーリは、シャシーこそ専用設計の鋼管チューブラフレームを採用したものの、エンジンはレーシングカーのティーポ 350Sに使われた3.5L直6DOHCをデチューンしたものを使用し、トランスミッションやデファレンシャル、サスペンションなどの主要なメカニカルコンポーネンツは実績のある欧州有名ブランドの製品を使用することで見事にやってのけたのである。

3500GTは57~64年の生産期間に2000台以上が製造され、当時としては商業的な大成功を収めた。

マセラティは57年にF1チャンピオンシップを獲得するも、世界スポーツカー選手権は不運が重なりタイトルを逃してしまう。その後は財政難からレース活動は低迷した。そんな中での3500GTのヒットは同社を救うとともに、レーシングコンストラクターからロードカー製造へと活躍の場を移すこととなる。ある意味で3500GTはマセラティの命運を変えたモデルであったと言えるだろう。


今回の『コンコルソ・デレガンツァ京都』には2台の62年型 3500GTが展示されていた。そのうちシャンパンゴールドでペイントされた車両は、ハリウッド女優のエリザベス・テイラーが最初のオーナーになった車両で、彼女の4番目の夫であるエディー・フィッシャーが彼女にプレゼントするために、マセラティに直接オーダーした特別仕様である。エリザベス・テイラーにプレゼントされる際には、真っ赤なリボンが掛けられて届けられたという逸話がある。


そして、この車輛の2番目のオーナーになったのは、同じくアカデミー賞受賞歴を持つ俳優のアンソニー・クインであった。その後は米国でも有数のマセラティコレクターの手に渡り、細部に至るまでオリジナルに忠実にレストアされている。


46年型 フィアット 1100C スポーツ・スパイダー(フルア・スパイダー)

1938~35年にかけて生産されたフィアットの小型大衆車1100をベースに、コーチビルダーであったピエトロ・フルアが製作した美しいスポーツ・バルケッタ(2座オープンスポーツ)。

トリノ生まれのピエトロ・フルアは、学業の傍らフィアットの養成校で製図工の教育を受け、学校を卒業後にスタビリメンティ・ファリーナに入社。同社でデザイン部長を務めたあと、自身のスタジオを開設した。だが、第2次世界大戦中は自動車デザインの仕事はほとんどなく、この間には子供用の自転車や電気オーブン、キッチンユニット、スクーターのデザインで糊口を凌いだ。

戦争が終結するとフルアは爆撃で破壊された工場を買い取り、従業員を15人雇い入れてコーチビルダーとしての仕事を再開。その最初の仕事となったのが、1100C スポーツ・スパイダーであった。


フルアは57年に自社の工房をカロッツェリア・ギアに売却するまでに、マセラティ A6G54(50年)やルノー・フロリード (58年)、マセラティ・ミストラル(63年)、ボルボ P1800(63年)、グラース 1300GT(63年)、グラース 2600(66年)などの傑作を生み出している。

なお、展示車両は2016年にレストアされ、翌17年のハンプトンコートの『コンコース・デレガンス』に出品されて話題となった。


47年型 フィアット 1100 SMM

イタリアを代表する自動車メーカー・フィアットは、今日では大衆車メーカーとして知られている。だが、20年代までは自社の先進的な技術を誇示するべくモータースポーツにも力を注いでいた。27年のミラノを最後にグランプリレースから撤退したが、ミッレミリアやタルガフローリオなどの公道レースには大衆車のコンポーネンツを流用したレーシングマシンでその後もエントリーを続けており、展示車のフィアット 1100 SMMもミッレミリア出場のために限定生産されたマシンである。


エンジン形式はベース車の1.1L直4OHVから変更されてはいないが、高度なチューニングにより最高出力はベースエンジンから10hpアップの42hpへと向上。ピニンファリーナが手掛けた空力特性に優れた流線型のボディにより、最高速度は140km/hを叩き出した。


明日掲載予定の次回へ続く
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