NISMO FESTIVAL 2016
 その日の富士スピードウエイは景色も音も匂いも丸ごと、ちょうど半世紀前のあの日に遡ったようだった。ファン感謝デーとして開催された年に一度の祭典「ニスモフェスティバル」のコンテンツのひとつで、日産R380がパレードランを披露したのである。


 ブリンス自動車は1964年、第2回グランプリに投入したスカイラインGTがポルシェに敗れたことをきっかけに、本格的なスポーツカーの開発に舵を切った。それが、のちに打倒ポルシェ904を果たし、数々の伝説を残すことになるR380である。


 R380の開発は、英国から購入したブラバムのシャシーを流用するところから始まった。レストアされたR380の細部に今でも残るブラバムの文字にドキドキしてしまう。


 エンジンは市販モデルであるグロリアから流用したGR8型2リッターエンジンだ。レース仕様にモディファイされ、初期は200馬力、最終的には255馬力まで戦闘力を高めたと言われている。


 希少な車ゆえに、パレードランだけではとても当時の速さをうかがい知ることはできない。だが、流麗なポルシェを模写したかのようなスタイリングは、黎明期だった日本自動車界にとっては衝撃的だったことは想像できる。いまでも、激戦の面影が残るのだ。


 R380の後継モデルとしてデビューしたのがR381である。エンジンはシボレー製のV型8気筒5.5リッター、450馬力に達したというから化け物である。


 さらに驚くのは、そのスタイルだ。R380は国際規則のグループ6だったためにクローズドボディだったが、R381はグループ7規定にしたためにオープンボディとなった。しかも、巨大なリアウイングを装着し、さらにはそのウイングが可変したのである。

NISMO FESTIVAL 2016 R381
 さらに驚きは続く。巨大な可変ウイングは左右で二分割され、コーナーリングのたびに左右の羽が独立して迎角を変化させた。スタビライザーと連動することで、ロールによってイン側の羽が起き上がり、荷重の減った内輪を抑えるように作用したのだ。ブレーキングでは左右の羽が同時に立ち上がり、前傾しようとする姿勢を整えたという。エアスタビライザーと呼ばれるウイングのそれは、鳥がはばたくような動きをすることから「怪鳥」の異名をとった。1967年のことだ。


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 日産の、打倒ポルシェへの執念は留まることを知らない。R381をベースに日産製のV型12気筒5リッターエンジンを開発し搭載したのがR382である。R381で話題を集めた可変ウイングが禁止されたことで、ウエッジシェイプの強いダックテールモデルが特徴となったのだ。

NISMO FESTIVAL 2016
 1969年の日本グランプリには3台のR392を投入し、予選1-2-3を独占した。決勝は1-2でチェッカーを受けている。圧勝である。翌1970年には富士インター300マイルにも参戦し、ここでも1-2フィニッシュをはたしている。そう、R380から続いた日産の黄金期はR382まで受け継がれたのである。


 兎にも角にも、こうしてR380からR381までの華やかなマシンがパレードする姿を眺めていると、当時のモーターレーシングがいかに煌びやかで栄光に満ちていたのかが想像できる。


 はっきり言って、マシンは危険極まりないものだ。例えばガソリンタンクは二分割され、ドライバーズシートを挟むように搭載されている。安全装備は、粗末なシートベルトとヘルメットだけである。一旦クラッシュすれば火に包まれるだろうし、その前に衝撃で即死であろう。


 だというのに、エンジンは異常なパワーを絞り出す。パワーアップの手法は概ね排気量アップしかなく、コーナーリング速度を高めるためには太いタイヤを履かせることにすがるような時代なのだ。ドライバーは命がけである。

 死のレースから生き残ったあるベテランドライバーは、当時を振り返ってこう笑った。

「よくこんな化け物に乗っていたよな。いま乗れって言われたら、3億円提示するよ」

 十分に納得できる。

「でも、命知らずばかりだったから、それがカッコイイと思っていたんだよね」


 命がけのレーサーに世の中が魅せられ、人気と金が集まった。かつての日本のモータースポーツが華やかだったことが、数々のグランプリを制したマシン達が語ってくれていた。



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