【ビデオ】7台のランボルギーニが「ミウラ」の闘牛牧場を訪問
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1966年3月、ランボルギーニはジュネーブ・モーターショーで、アグレッシブな設計をエレガントなスタイルで包んだ1台のスーパーカーを発表した。そして50年後の12月2日、その名称の由来となった地を、7台のスーパーカーが目指した。スペインのマドリッドを出発したランボルギーニの一団が向かったのは、アンダルシア州ロラ・デル・リオにある「ミウラ」一族が経営する闘牛牧場だ。




この「Back to the Name」と呼ばれるツアーは、ランボルギーニの名車「ミウラ」50周年記念を締め括る最後のイベントとして行われた。イタリア・サンタアガタ・ボロネーゼのランボルギーニ・ミュージアムが所蔵する「ミウラ SV」をはじめ、現行モデルの「アヴェンタドール」や「ウラカン」などが、スペイン最古にして最も名高い闘牛牧場を訪れ、現在の牧場主であるエドゥアルド・ミウラ氏とアントニオ・ミウラ氏に対面。1966年にフェルッチオ・ランボルギーニが面会したドン・エドゥアルドの息子達だ。




スーパーカーの始祖とも言われるミウラの物語は、その前年に始まった。1965年11月のトリノ・オートショーに、ランボルギーニの若手技術者たちが製作したシャシーが展示されたのだ。設計を担当したその1人の名前はジャンパオロ・ダラーラ。後にレーシングカーの世界で知らない人はいないほどの成功を収めるエンジンニアも、まだ30歳になっていない頃だ。鋼板を溶接して製作されたそのシャシーは、一般的なクルマとは逆側、つまり車体後方に12気筒エンジンが横向きに取り付けられていた。

しかし、そのシャシーにはまだボディがなかった。これを見たカー・デザイン界の巨匠、ヌッチオ・ベルトーネはフェルッチオ・ランボルギーニにこう言ったという。「私は貴方の足にぴったり合った靴を作ることができます」。実際に美しい靴を仕立てたのは、当時ベルトーネのスタジオでチーフ・デザイナーに就任したばかりのマルチェロ・ガンディーニ。その後も数々のスーパーカーをデザインしたことで知られるが、当時は彼もまた26歳の若者だった。



時代を担い始めた若者たちによって完成したこのクルマに、自身が創立した会社のエンブレムに雄牛を使った牡牛座生まれのフェルッチオは「ミウラ」と名付ける。闘牛に因んだ車名というランボルギーニの伝統はここから始まった。ミウラ牧場で飼育された雄牛の勇猛さと戦いに挑む眼の力強さは、著名な闘牛士達が口々に語っている。その名前を与えられたクルマは、0-100km/h加速6.7秒、最高速度280km/hという性能でスーパー・スポーツカーの新たな基準となった。1967年に「P400」として発売された当初、ミドシップに搭載された4.0リッターV型12気筒エンジンの最高出力は350馬力だったが、すぐに370馬力の「P400S」が登場し、さらに1971年には385馬力まで引き上げられ、各部に改良を施した「P400SV」に進化した。1973年までに3世代の市販モデル+特製モデルや試作車も含め、755台ほどが製造されたと言われている。

その翌年に会社の株を全て売却し、自動車業界から退いたフェルッチオは、イタリア・ウンブリア州トラジメーノ湖の南東に購入した土地でワイン造りに精を出す。その赤ワインで最も有名な銘柄は「Sangue di Miura(ミウラの血)」と呼ばれている(現在はフェルッチオの息子トニーノ・ランボルギーニが同名ブランドのワインを販売中)。