駐車場での事故多発は、自動運転車が必要とされる証拠?
自動運転車の時代が到来しつつある。これを我々の主体性への脅威とみる意見もある。つまり、自動車の操縦を手放すということは、命が助かる可能性を問わず本質的な自由の放棄であるとか、自動運転車は政府による監視社会への流れを後押しするものだという見方もある。確かにそれも一理あるが、こうも言えるだろう。我々が自動運転車を使うのは必然だ。なぜなら、我々は運転を断念したのだから。ここで言う"我々"とは社会全体のことであり、ヒール・アンド・トゥのテクニックを使ったり、アンダーステアを気にしながら運転したりする数少ない我々のような人間という意味ではない。

先日、ミシガン州のアナーバーで発生した事故(米国版Autoblog編集部の近くだった)は、筆者の意見を裏付けてくれた。あるドライバーが駐車場を横切る際、別の車両の側面に衝突し横転を引き起こしたのだ。しかし、これは駐車場での出来事。公道での事故ではなかったため、警官は召喚状も出せなかった。確かに、ドライバーは軽い怪我で済んだ。しかし真面目な話、どこへも衝突せずにスターバックスの屋外駐車場から出ることすらできないなら、運転免許証を持つ資格はないだろう。

どこへ行くにもロボット運転手を連れて行くのは歓迎しないが、将来的に我々が自分のクルマを運転しなくなるという必然性は受け入れるしかない。50年先かもしれないし、20年以内かもしれないが、その日は確実に来る。それはオートマチック・トランスミッションに始まり、繰り返し利便性を追求した結果、運転に対する無関心を引き起こしたのだ。もちろん、安全性も求めてきた。しかし、安全性や利便性の向上はドライバーから責任を奪ってしまった。

ABS(アンチロックブレーキシステム)が人命を救う安全装備だということに疑う余地はないが、平均的なドライバーは、ブレーキペダルを適切に調整しながら踏むことさえ分かっていないのだ。ABSや横滑り防止装置、レーンキーピングアシストなどが装備される理由の一つは、ほとんどのドライバーが基本的な運転技術さえ身に付けようとしないことにある。全体的に見れば、我々はまるで子供だ。運転に伴う責任を負えないことは明白だ。自動運転車は、人類に与えられた最高の"おもちゃ"を我々から取り上げることになるだろう。それについて、既に議論の余地さえ失われていることが悲しい。




By Michael Austin
翻訳:日本映像翻訳アカデミー