1964年に開催された第2回日本グランプリ。このレースで、後に日産と合併するプリンス自動車から出場した「スカイライン」が、あのポルシェを抑えてグランドスタンド前を走り抜け、これを観た大勢の観客たちが熱狂した。「スカイライン伝説」のはじまりである。このエピソード、聞いたことはあっても実際に映像を見たことがある方は少ないのでは? 日産は12日、YouTubeの公式チャンネルでこの貴重な映像を公開したので早速ご紹介しよう。

今でこそ「日産 GT-R」と「ポルシェ 911」は、いわゆる "ガチンコのライバル" として世界的にも認められている。それは最高出力、最高速度、そしてニュルブルクリンク北コースのラップタイムなど、各種の数字が表すところだ(ガチンコでないのは価格くらい...?)。だから、この2台がデッドヒートを繰り広げる様子を見れば依然として胸躍るが、わずか1周ばかり、GT-Rが911の前を走ったくらいでは大騒ぎするほどのことでもない、と思うのが現在のほとんどの人の気持ちだろう。

だが1964年、日本のモータースポーツ黎明期に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリは、今と状況がかなり異なっていた。



プリンス自動車がこのレースに投入した「スカイラインGT」は、1,500cc直列4気筒を積む小型ファミリー向けセダンとして開発された2代目スカイラインの、エンジンルームをホイールベースごと、いわば「切った貼った」して無理矢理20cm延長し、そこに上級モデル「グロリア」から流用した直列6気筒1,988ccエンジンを押し込むという手法によって、高性能なGTとして仕立てたクルマ。当時このスカイラインGTをドライブした砂子義和氏はこう振り返る。

「ボディをここ(Aピラー)からちぎって20cm伸ばしたような状態なわけ。だからボディとしては物凄くバランスが悪かった。しかもタイヤが全然アウト(ダメ)だろ。だから結局、もうドリフトする以外は仕方がない恰好になっちゃったわけさ。でも要するに、タイヤが滑ってくれるから、ボディの剛性も、普通のままでよかったわけ」



だがこの些か乱暴な手段は、実際に「速いクルマ」を生み出すことに成功した。砂子選手は鈴鹿で、日本車として初めて2分50秒を切る、2分47秒というタイムを記録。「当時は、鈴鹿サーキットで1番速いのはこれだ!って言って威張っていたわけよ」と語る。ちなみにこのアイディアは、当時のチーフエンジニアで後年も「スカイラインの父」として知られる桜井眞一郎氏の発案だったそうだ。プリンス自動車はこのスカイラインGTをレースに出場させるため、100台の規定生産台数をぎりぎりでクリア。優勝間違いなしと信じ、意気揚々と鈴鹿に乗り込む...はずだった。



しかしレース開催が間近に迫る頃、前年の第1回日本グランプリで「トヨタ コロナ」を駆りクラス優勝した式場壮吉選手が「ポルシェ 904 カレラGTS」を個人で購入し、急遽プライベーターとして参戦することが決まる。このカレラGTSとは、ポルシェ初の市販スポーツカー「356」の中でも超高性能な「356B 2000GT」通称「カレラ2」に搭載されていた1,966cc水平対向4気筒4カムDOHCエンジンをミドシップ・マウントし、空力的かつ軽量なFRP製ボディを被せた本格的なレースカーであった。当然一般の個人が買うなんて信じられないくらい高価格であったため、当時は式場選手と契約していたトヨタがプリンス自動車の優勝を阻止するために資金を提供した、などいう噂もあったようだ。だが、式場氏によると、購入価格の半分は自身がジャズ・ミュージシャンとして稼いだ(かなりのギャラを貰っていたとか)貯金やトヨタから貰った契約金をはたき、残りの半分は父親が経営する病院を継ぐという約束で出してもらったそうである。だからだろうか、当時は才能を嘱望されたにも関わらず、式場氏は早々にレーシング・ドライバーを引退。そのままレースを続けていれば、日本人初のF1ドライバーになったかも知れない、とまで言う人もいる。


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このポルシェ 904 カレラGTSとプリンス スカイラインGTの性能差について、式場氏の友人であり当時プリンスの契約ドライバーであった生沢徹氏は「軽自動車のレースにF1マシンが出場するようなもの」とあるインタビューで語っているほど。国産ファミリーカー・ベースの急造高性能車と、国際格式の名だたる耐久レースで優勝している純レースカーでは、現在想像する以上の差があったに違いない。

そして1964年5月、第2回日本グランプリは開催された。しかし、圧倒的有利かと思われたポルシェ 904にも弱点があった。シートが固定式であるため、ペダル類の位置を前後に調節してドライビング・ポジションを合わせるのだが、その調節用ケーブルが切れやすかったのだ。雨天に見舞われた予選2日目、式場選手のドライブする904はまさにこのケーブルが切れ、ブレーキが効かなくなりそのままガードレールに追突。フロント部を大破してしまう。

仲間を集めて2日間、徹夜で必死に修復作業に取り組み、何とか式場選手とポルシェは決勝レースに間に合った。痛手を負い、完調ではなくてもそこは "軽自動車の中に紛れたF1" 。スタート直後からトップに立つ。それを予選でトップタイムを記録した生沢選手のスカイラインが必死に追い掛ける。後に語られた話によると、この時の式場選手がドライブするポルシェ 904は、予選のクラッシュによる影響で真っ直ぐに走らない状態だったとか。タイヤも公道用であり、ギア比も鈴鹿のコースに合わせていなかったため、本来の実力の半分も出せていなかったという。



日本のモータースポーツ史上に残る "事件" が起こったのは7周目。S字で遅いクルマを周回遅れにしようとしながらも抜きあぐねていた式場選手の隙を狙い、生沢選手がドライブするスカイラインGTはヘアピン手前で2台まとめてオーバーテイクに成功。そのままの順位でホーム・ストレートへ戻ってきたのだ。ポルシェを抑えてトップを走るスカイラインを見たグランド・スタンドの観客は総立ちとなり、また、TVやラジオでその様子を見聞きしていた日本中の人々が歓喜したという。

この時のエピソードには、プライベートで仲が良かった式場氏と生沢氏の間にある約束があった、と伝えられている。レース前、生沢氏は冗談で「1周だけ前を走らせてくれ」と式場氏に頼んでいたというのだ。もちろんこれが冗談であるということは式場氏も承知しており、レースになればそんなつもりはなかったそうだが、たまたま周回遅れとの絡みで本当に前に出てしまった生沢氏の顔を見たら、「もう、こっちなんて見ずに、必死の形相でハンドルを握っている。それを見たら、そういえばあんな話していたっけなあと思い出して、本当は抜くつもりになれば簡単に抜けたんだけれど、しばらく前を走らせてみることにした」と、式場氏はあるTV番組に出演した時に語っていたことがある。



ほとんどの人々は2人の間にそんなやり取りがあったことなどもちろん知らない。ただ、スカイラインの前に立ち塞がる世界の壁としてポルシェを認識していた日本人の中に、この日この時、その壁が決して破れないものではない、という信念が生まれたことは間違いない。つまりスカイラインの伝説とは、この1周の出来事だけを指すのではなく、その後の数十年間において日本のモータリゼーションが成し遂げた奇跡的急速発展、そして現代では本当に "ガチンコ" の勝負が出来るようになったGT-Rに至る歴史のことではないかと思うのだ。

結局レースは、次の周で式場選手が生沢選手を抜き返し、そのまま後続に10秒の差をつけて優勝。生沢選手にはピットから「ペースを守れ」という指示が出され、3位走行中の砂子選手がこれをかわして2位に入る。以下、6位までスカイライン勢が占めるという結果に終わった。翌日のスポーツ新聞には「泣くなスカイライン、鈴鹿の華」という見出しが載ったそうだ。

そんな歴史的日の貴重な映像を、スカイライン・ファンだけでなく多くの方々にご覧いただきたい。また、ギャラリーには伝説を創ってきたスカイラインおよびGT-Rの公式画像を集めてみたので、そちらも是非どうぞ。

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