【ノスタルジック2デイズ】幻の国産スーパーカー「童夢−零」!
童夢−零の高解像度ギャラリーは上の画像をクリック

今年の「ノスタルジック2デイズ」特別展示車両は、1970年代にスーパーカー・ブームの洗礼を受けた人たちには懐かしい「童夢-零」。今では日本屈指のレーシングカー・コンストラクター「童夢」が、かつて市販を目指して開発した純国産スーパー・スポーツである。

「童夢-零」が人々の前にその姿を現したのは1978年春のジュネーブ・モーター・ショー。その先進的なデザインはたちまち脚光を浴び、「童夢」の名前を世界中に広めることになった。
中でも、当時スーパーカー・ブームに沸く日本(の特に子供たち)に与えたインパクトは大きかった。
それまで主役だったランボルギーニやフェラーリと比べても負けないスーパーカーが、"ついに日本から出てきた!"
それは例えて言うなら、サッカー日本代表が初めてワールドカップの予選を通過したときのような興奮と、歓喜と、誇らしさを日本の子供たちに感じさせた。
それまで「ヨーロッパには美しくて速くてカッコいいスポーツカーがたくさん走っている(と思っていた)のに、僕たちの生まれた日本には、トヨタ2000GT日産フェアレディZくらいしかない」と思っていたのだから。ロング・ノーズを持つこれらのクルマは、イタリア製スーパーカーに比べると旧めかしく(実際スーパーカー・ブーム時にはすでに10年前のクルマだった)、"負けている" という印象だった。

童夢−零のエンジンは、スーパーカーの文法通りミドシップ・マウントされていたが、実は日産製L型SOHC直列6気筒2800ccで最高出力も145psに過ぎない、なんてことは子供たちにはあまり気にならなかった。実際にクルマを運転したことがない彼らにとって、それはよく意味の分からない単なる数字でしかなかった。それよりもどうだろう、この「カウンタック」や「512BB」すら古くさく思えてしまう未来的なスタイルは!
童夢-零を最も評価し、支持したのは、当時の日本のスーパーカー・ブーマーの子供たちだった。


さて、ここから先は当時の子供たちには知り得なかった話だ。

1975年、童夢-零のプロジェクトは挫折から始まったのだという。
レーシングカー・コンストラクターを目指しながらも行き詰まっていた当時の林みのる童夢代表のもとに、同じように挫折した日本レース界の才能が集結、レーシングカーは諦めて少量生産のスポーツカーを作ろうとしたのが童夢-零のはじまりだった。

ボディのデザインは林みのる氏と、現ムーンクラフト代表で後に数々のレーシングカーをデザインする由良拓也氏。モノコックは「マキF1チーム」を率いて日本のプライベーターとして果敢にF1の世界にチャレンジした三村健治氏が設計。足回りは東京R&D社長でホンダ・エンジンを積むスポーツカー「ヴィーマック」の生みの親、小野昌朗氏が担当した。
童夢−零の開発は、第48回ジュネーブ・モーター・ショーに間に合わせるため、ほとんど自宅に帰らないというハード・スケジュールで、童夢の公式サイトによると、当時「4人いた既婚者全員が奥さんに逃げられていたというなんとも悲惨な2年間」だったという。

その甲斐もあって、童夢-零はジュネーブ・ショーで大評判を獲得、いよいよ市販化を目指してテスト走行を繰り返すとともに、型式認定取得のため当時の運輸省と1年間に渡って交渉が続けられた。
だが、「それは交渉なんてレベルの問題ではなく、俗に言うたらい回し、柳に風、暖簾に腕押し、糠にくぎ、時おりハリネズミのような威嚇も交えて、健全な精神の持ち主なら気が狂ってもおかしくないほどの狂気の世界」(童夢公式サイトから引用)だったという。

そこで童夢は国内における車両認定の取得を諦め、アメリカに「DOME USA」を設立。アメリカからの「逆輸入車」として日本で市販するという方法を考え、アメリカの法規に準じた仕様のプロトタイプ「童夢P-2」を製作する。
童夢 P2

ところがその頃、ちょうどル・マン24時間レース参戦のプロジェクトが立ち上がり、もともとレースの方面を志していた彼らはそちらに力を注いだ結果、市販スポーツカーの計画は途中で頓挫。スーパーカー・ブームを "卒業" した当時の子供たちにとっては「幻の国産スーパーカー」として終わることになる。


だが童夢-零の製作は無駄ではなかった。それどころかこの幻のスーパーカーは、童夢という会社、延いては日本のレース界に多大な貢献を果たしたと言えるのだ。

ジュネーブ・ショーで脚光を浴びた童夢-零には、玩具メーカーから商品化の申し出が殺到したという。当時発売された童夢−零関連の商品は、プラモデルやミニカーはもちろん、Tシャツから文房具まで "キャラクター・グッズ" は多岐にわたった。それぞれ各社とアイテムごとの契約を締結した結果、多額のライセンス料が童夢に舞い込み、ル・マン出場の夢を叶える資金となったほか、現在の童夢の礎を築く契機となった。

それを支えたのは玩具メーカーでもメディアでもなく、スーパーカー・ブームの渦中にいた子供たちだったことは言うまでもない。
ル・マンからフォーミュラ・カー、SUPER GTなど、その後の童夢の日本国内に留まらない世界のレース・シーンにおける活躍はご存じの通りだ。

今回はル・マン24時間レース出場のために製作された「童夢-零RL」も一緒に展示されていた。当時は童夢−零の「レース・バージョン」として紹介され、こちらも数々の商品が作られた。

今になって改めて見ると、全長3980mm × 全幅1770mmの童夢−零は、ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ512BBより一回り小さく、全高はわずか980mmしかない。当時、子供たちの心の中ではこれらイタリアン・スーパーカーがライバルだったけれど、童夢としてはロータス・エスプリ(エンジンは2リッターの直列4気筒を搭載)のようなミドル・クラスのスポーツカーとして販売する計画だったという。

市販化はされなかったが、その後の日本の自動車業界・モーター・スポーツ界に多大な影響を与えた童夢−零。懐かしいという方も、初めて見るという方も、その画像は下のギャラリーからどうぞ。


Related Gallery:1978 Dome Zero


Related Gallery:1979 Dome Zero RL